京大卒、米留学、映像ディレクター。その肩書きを捨てたら、本気の人生が待っていた。
見出し画像

京大卒、米留学、映像ディレクター。その肩書きを捨てたら、本気の人生が待っていた。

株式会社SUGOI  愛とアイデアのある会社

今日のSUGOIのnoteは、特別バージョンとなっております。

縁あってライターさんに、SUGOIのメンバーをインタビューしてもらい、その半生を記事にしていただきました。

初回は、SUGOIのCOOの子守祐一です。COOという肩書きも含めて、何をしているのかわかりにくいようなのですが、こちらの記事を読んでいただければ、どんな思いで、どんな仕事をしているのか、よくわかります。

恥ずかしいところ、情けないところも含めて、記事にしていただきました。ぜひ読んでください。



冷静と情熱のあいだ、という定型句はよく耳にするが、子守祐一さんのことはこう呼ばせて頂こう。

論理とロマンのあいだ」に位置する人。

Logic と Romance。
左脳と右脳のあいだで揺れ動き続ける子守さんは今年、38歳になる。


子守さんの働く株式会社SUGOIは、不思議な会社だ。
映像制作を軸としたあらゆるクリエイティブワークが事業の中心だが、いわゆる制作会社とは一風変わっている。
広告代理店からの受注というオーソドックスな事業に加え、クライアント企業と直接つながったブランディング事業、さらに消費者と直接つながるD2Cの実験的事業として和紅茶の販売サイト「a yohak」も運営している。

これだけ手広い事業を行いながら、常駐スタッフはなんと3名だというから驚きだ。
しかも統括業務を中心とした一般的な制作会社と違って、クリエイティブはほぼ全て自社内で完結させるという徹底ぶりなのだ。

改めて言うがこれを3名で担っているのである。その中で子守さんは、COOとして会社内を流れる血液を常にサラサラに保つ役を務めている。

しかも子守さんは、日常的に映像編集などの専門性あるクリエイティブも手がける。
時には現場でカメラを回すこともあり、コピーライティングまで担ったりする子守さんの肩書きを全て名刺に載せたら、あの小さな紙のサイズでは足りないだろう。

なぜこんなにも八面六臂の活動をやっていけるのか?
インタビューしてみると、そこには「論理とロマン」の両方を胸に熱く抱き続ける、情熱の半生が浮かび上がってきた。


●Side:L 論理の力でどこまでも行けた

子守さんは’83年、兵庫県に生まれた。活発な子供であったが、集団の中でじゃれあって遊ぶのは苦手だったのだそう。

集団登校が嫌いな子供でしたね。神戸の街でしばらく育って、西脇市という山の中に一時期引っ越すんですが、もう本当にみんなで集まって学校に行くのが嫌で、うちだけ弟と二人で登校してました。

うちの母は完全に自主性を重んじるスタイルで、これをしろっていうことは全く言われず、「子供が自分で自分のことを選んで楽しめるように」だけを考えて育てられてきたと思います。

好きな遊びも昔から独特だったんですよ。ニキーチンのデザイン積み木ってわかります?あれを祖父が手作りしてくれたんですが、幼稚園の頃からそれで遊ぶのが大好きで。平面に描いてある図を、積み木で解くのがとにかく好きだったんですよね。

解くといえば、知育ドリルも好きでした。母と一緒に本屋に行って何冊か買うんですが、一瞬で終わっちゃうんで、母は困ってましたね(笑)。とにかく答えを解いてぴったり合わせるのが好きだった覚えがあります。

小さな頃から、嫌になるくらい我が強いんですよ。まだ箸の持ち始めの時、母親が癖を直そうとすると「いや、これで合ってる!」って言って聞かないそうなんです(笑)。その割にかなりのビビリで、3歳くらいまで家の中でも常に壁を触ってないと歩けなかったらしくて。すごく個性のはっきりした子供だったと思いますよ。


ーーそういう子ほど手がかかる分、親としては可愛がりがいがありますね(笑)。子守さんって、プロフィールを見ると驚くのですが、京都大学の大学院まで進んでらっしゃる。その後はアメリカへ映像を学びに渡ってらして。

いや、SUGOI代表の(秋葉)陽児さんからは「学歴を盛大に無駄づかいしてる姿がいいね」って言われてますよ(笑)。京大やアメリカまで行った人が現場で埃まみれになって大道具運んでるのは、なんか一生懸命ですごいよ、って(笑)。

どこでそうなって行ったのかわからない。
地元でも有名な進学校に進み、特進クラスで高学歴への揺るぎない道を突き進んでいた思春期の子守さんには、想像のつかなかった未来を歩んでるのかもしれない。

小学生のとき、学校の授業の進みが遅すぎて持て余してしまって、自分から受験したいと言い出したんですよ。進む予定の中学校が、校則で全員丸坊主になってるのを見たのもありますね。あそこには絶対行きたくないと思って(笑)。それでまた、受験のために神戸の都会に引っ越して。

塾の勉強は本当に楽しくて、ハマったんです。知育の積み木やドリルをやっていたのと同じ感覚で、どんどん解いていく楽しみがあるじゃないですか。あと僕は、「解けない、わからない」があると気持ち悪いんです。その気持ち悪さを排除するために勉強していた感じがします。

小6の時に家庭教師に来てくれていた先生が、京大の院生だったんですね。それで子供ながら憧れて、「将来は京大に行こう」ってその時にはもう決めてました。

それで中学に入って特進クラスに配属されたんですが、ここが独特で、高校卒業までの6年間、クラス替えが無いんですよ。しかも一番の進学校ではなかったんで、みんな「本当はここに来たくなかった」というコンプレックスを抱えている。まあ、一言でいえば地獄でしたね(笑)。

「わからない=気持ち悪い」という子守さんに、中高の6年をかけて不条理の波はひたひたと押し寄せ、ついに彼を飲み込んだ。

6年間で、じわじわと上下関係が確立していくんですよ。集団が苦手だった僕にはわからない世界でした。そして大学受験の時期に近づいてくると、みんな思春期だしストレスもあったんでしょうね、いじめという行為につながってくる。
ターゲットが段々と入れ替わって、僕の番に回って来た。昨日まで楽しく話していた友達が、翌朝には話しかけても全く口をきいてくれないんですよ。意味がわからないじゃないですか。

クラス全員に無視されて、でも僕は我だけは強かったんで、休んでしまったらあいつらの思うツボになる。だから学校には行こう、その代わりにあいつらが手に入れることのできないものを手に入れよう、と決めたんです。


ーーそれは何だったんですか?

今思い返すと小さなことですけどね、あの頃の頭で考えて、校則でバイトが禁止されてたので、よし、これをやってみようと。ちょっとみんなと違うことやってるって、マウント取った気持ちになれるじゃないですか(笑)。

僕は、決めたらそれを叶えるための道筋を引くんですよ。高校生が働ける店はどこだ、ああ、ファストフード店がある。沿線の店に片っ端から電話して、バイトの空きがあるか聞いて。それで働き始めたら、随分と気持ちのバランスが取れるようになりました。そこで狭い世界の外側に出ることは大事だと学んだかもしれないです。


ーー受験への影響は出なかったんですか?

いや、見事に一浪しましたよ(笑)。浪人中の夏にE判定だったので、これはヤバいなと。その頃に予備校の先生から「人は一日15時間は勉強できる」と聞いたんです。詳しく聞いたら、確かにそうだなと思った。僕は、納得したことについては真っ直ぐに行動できるんですよ。

そこから15時間のタイムスケジュールを作って、きっちりその通りに勉強したら、望んだ通りに合格できた。その時に「ああ、ちゃんと行けるな」と思ったんです。ちゃんと理解して、道筋を引いて、その通りに努力すれば目標は叶うんだと。


ーーこれが子守さんにとっては初めての、大きな成功体験だったわけですね。苦境でも自分で解決策を生み出せる、力強さを感じます。


●Side:R この世はわからないことだらけだ

京大合格は、受験生にとって一種のゴール。だが子守さんは、ゴールを決めたという単純な気持ちにはなれなかった。

高校のクラスで無視された頃から、バイトと並行して詩を書き始めていたんです。不思議と楽になるんですよね、誰にも表現できない気持ちを言葉にしていくと。何となくその頃から、自分の追っているテーマは「コミュニケーション」や「人とつながること」だったかもしれないです。

高校までバリバリの理系だったんですが、受験時に変えて、文学部を選んだんですよ。最初は国文学をやりたかったんです。伊勢物語を読んだ時に、たった31文字にこの情報量が詰まってるんだ、ということに衝撃を受けまして。和歌が好きだったんですよね。特に平安時代のものが。

ーーなるほど…和歌や伊勢物語のコミュニケーション・ツール的な側面に興味を抱かれたわけですね。ロマンチストだけれど、やはり理系脳の名残がある(笑)。

そうですね(笑)。でも、ちょうど京大にぴったりの先生がいなかったんです。これだと研究ができないので、次の選択肢として、現代文学や社会学に関する方面に進むことに決めまして。
3年生の頃だったか、授業で映像を作ることになったんです。NHKの方が講師で来て、ドキュメンタリーを作ろうという授業で。僕はそれをぶち壊して、アートな作品を作ってしまったんですが(笑)。その経験がすごく面白くて、自分で映像って作れるんだと、カメラとPCを手に入れて作り始めるようになりました。

23歳になり、卒業が迫った時も子守さんには未練が残っていた。
まだ自分は何も学びきれていない。何を追いかけたいのかもわからない。

両親には「教職につきたい」と適当なことを言って(笑)。そのために大学院に通わせてくれと。進んだらそのまま休学して、長いこと北海道の牧場に住み込みでバイトし、稼いだバイト代でレンタカー借りて放浪したりなど…あの頃は本当にやりたい放題でしたね。

ーーとんでもない不良院生ですね(笑)。

子供の自主性を重んじて育てるとこうなってしまう、ってことでしょうか(笑)。親には感謝しかないです。

ーーそこからどうやって、アメリカでの映像修行へと目が向くんでしょう?

このモラトリアム期間にカナダへ語学留学にも行ってまして、これは面白いと。でも長期で行くなら語学以外の目的も持った方がいい。それで映像を学びに、場所としては消去法でロサンゼルスに辿り着いた感じです。すごく住みやすくていい場所でしたけどね。

年齢を重ね、アカデミックな道に狭まって行く自分への不安を払拭するように、外へと飛び出し続けた子守さん。「やってみたい」という気持ちが赴くまま、やがて3年在籍した大学院を中退し、ロサンゼルスへと飛ぶ。資金は塾講師のバイトで効率よく稼いだ。

もうこの時点で27歳ですからね。さすがに親に出してもらうわけにはいかず(笑)。語学も拙い状況だったので、周囲とのチームで映像を作る授業にまともに参加できるのには、半年くらいかかりましたね。
その学校で2年間ディレクティングを学んで。作品はやはりアート寄りのもので、卒業する頃には自分はアーティストとして生きて行くんだと思い込んでました。

その後1年は学生ビザのまま滞在させてくれたので、知り合ったダンサーとダンス・ムービーを作ることに一生懸命になって。どうやったら彼が売れるんだろう、とプロデュースや興行のことを考えたり、振り付けにも参加したりで。とにかく映像だけでなく、あらゆることをやってました。

ーーそこが子守さんの面白いところですよね。日本で映像を仕事にしようと考えると、どうしても編集ソフトの使い方とかカメラの扱い方とか、専門性から入ってしまう。その方が就職できる率が高いですからね。分業の発想が根強い日本の映像業界に反して、子守さんには「なんでも自分でやろう」という発想が根付いている。

映像学校ではディレクティングだけでなく、シナリオも当然書かなきゃいけなかったし、僕は原作の小説まで書きましたからね(笑)。映像制作の前後に発生することとして、企画から人に届けるところまでもを視野に入れるのは、この時期に自然と学んでいったかもしれません。

日々一生懸命に生きている。それなのに、一体このままどこまで流れていくんだろう。
自分がこうだと納得できる道に限って、ことごとく世間からずれていく。自分の存在を証明するためなのだろうか、子守さんは作品づくりに打ち込む日々を送っていた。



●途絶えたロマン、押し寄せる現実

20代、ロマンだけを頼りに生きてきた子守さん。そこにある時、いきなり現実が怒涛のように押し寄せてきた。

ついにビザが切れるということで、アーティストビザに切り替えるために日本に帰国したんです。その頃に出会った今の奥さんと、出会って1週間で結婚を決めて(笑)。一緒にアメリカで暮らそうと話していたんです。ところが、アメリカ行きのビザが下りなかったんですよね。

子守さんは愕然とした。結婚した彼女に申し訳ない。住む家はどうしよう。いや、そもそも日本で何して生きていこう?
アーティストとして生きると決めていた子守さんには、「ただしそれはアメリカで」という条件付きの気持ちがあった。

日本でやってくことを、この時点で全く考えてなかったんですよ。それなのに自分はいま日本にいて、しかも結婚したばかりで。何とか仕事しなきゃと焦りましたね。

ーー就職は考えなかったんですか?子守さんの経歴なら引く手数多な感じがしますが。

いやいや、逆に全て書類で落とされました。京大出てしかもアメリカまで行ってるなんて、仕事仲間としてめんどくさそうじゃないですか(笑)。というより、それ以前にまず年齢で引っかかる。
とりあえず稼げるとわかってた塾講師の仕事をやりながら、同時に映像の仕事もフリーでやって、近い内に収入バランスを逆転させたらいいと、得意の道筋を引いてみたんですが…これが全然逆転しないんですよ(笑)。そのまま2年以上が経ってしまってました。

いよいよ映像関係の仕事に就職を決めなければと、腹を据えた子守さん。決めたならば真剣にと、企業情報を調べ続ける毎日。

どこでもいいから入りたい、という気持ちになれなかったんですよね。もう切羽詰まって後が無いにも関わらず(笑)。就職するからには心から信じられる会社で働きたいし、長く続けたいと思っていて。
そのためにはトップに立つ人の理念が共感できるものでなければと、経営者の発信情報ばっかり読み漁ってました。その中で自分にバッチリ合う会社が見つかった。それがSUGOIだったんです。

住んでいた神戸から、上京して面接へ。
ノーキャリアだった子守さんの履歴書は一度スタッフにより不採用のボックスに入れられたが、代表の秋葉さんがそれを拾い上げたのだそう。

なぜか陽児さんが僕のことを面白がってくれて。学歴云々ではなく、「ロマンティックなところがいいよね」と言ってくれたんです。
採用が決まった時は驚きましたが、すごくワクワクしました。よし、ここで念願のディレクターになってやろうと。

東京に居を移し、新しい生活を始めた子守さん。この時すでに34歳になっていた。


●「ディレクター、やーめた」と思えたあの日

SUGOIにはすでに数名のディレクターが在籍していた。全体を統括するクリエイティブ・ディレクションは、代表である秋葉さんの仕事。そして当初は、ディレクターのアシスタント業務が子守さんの役割だったという。

実際仕事として映像制作に関わると、陽児さんと先輩ディレクターの方のやり取りに、わからないことが多いんですよ。何を話してるのか、横で聞いててわからないのが気持ち悪い。まだ入社してまもない時期ですが、そこで二人の話が終わった後、「自分にも教えてください」と言ってみたんですよね。そうしたら、陽児さんがすごくわかりやすく教えてくれた。

他の会社がどういう風通しかわからないですが、この会社では少なくとも「背中を見て覚えろ! 盗め!」なんてことは言われない。ああ、聞いていいんだ! と感動を覚えて。そこからグイグイと、何でも聞くようになったんです。


ーー一般的には先輩は忙しいんだから下のやつは黙って覚えろ、ですよね。それがなく、最初から疑問を持った人にはフェアに接してくれたということでしょうか。

そういうことですね。これはSUGOIの企業文化だと思いますけど、分業意識とか役職や年齢だとか、そういうものに捉われず自分の頭で考えていれば誰でもフェアだという。
陽児さんは良い物を作ろうという全体の目的意識がはっきりしてるから、他社の方に対しても、態度は社内と変わらないんです。ちゃんと相手の意見をわかるまで聞いて、こちらからも本音で話そうとする。雰囲気でやり過ごさないんです。僕は「わからない」がずっと気持ち悪かったので、この社風にバッチリとはまったんですね。

それで働く環境も心地よいものに変えていきたいなと思って、日々の業務に目を向けていくと、今度は社内の色んな仕組みについても気になってきて。具体的に最初に手をつけたのが社員のコミュニケーション・ツールですが、それも思い切って言ってみたところ、すぐに採用されたんですよね。実は、みんなが思ってたけど忙しくて手をつけられてないところだったという。


新しくしたいというよりも、不快を取り除きたいというのがまず僕の中にある行動原理で。やっぱり、コミュニケーションが複雑だったり滞ったりするのが、ものすごく気持ち悪いんです。

ーーなんだか、幼少期からの子守さんの性質がバッチリとつながってきましたね。

本当にそうなんです。そこがどうも、今の役割であるCOOにつながっているようなんですよね。ディレクターとして採用されたけど、だんだんと性質的にそういう仕事が増えてきたんだと思います。

あとその頃に考え始めたのは人材教育ですね。SUGOIって、これは意図的にそうしてるんですが、人数が少ないじゃないですか。当時は5人くらいいたと思うんですが、それでも一人の動きがSUGOI全体の20%のイメージを担うわけです。ちょっとでも理念に反することをすると、それが企業のイメージを決めてしまう。結構リスキーだよなと思って、採用や人材教育をやらせてくださいと陽児さんに直談判して。


ーー子守さんは、俯瞰して状況を眺める力に長けてますよね。これは学んでなかなか身につくものじゃないと思います。

クリエイターとして社内の誰よりも長い期間映像を学んできて、ようやく職業としてのディレクターになろうとしていた子守さん。だがある時、そのこだわりがストンと落ちた。

COOをやらせてくれ、と直談判した時ですね。とにかく陽児さんは会社の肝だから皆んなを引っ張るビジョンとクリエイティブに集中して欲しい、それ以外の組織の運営は全部僕がやりますから、と。この時に、「ディレクター、やーめた」と自然に思えたんです。

ーーなんでそんなにさっぱりと思えたんでしょうね?

なんでしょうね、自然にそう思えたんですよね。後から考えれば「性質に合っていた」としか言いようがないですけどね。
きっぱり割り切ってから僕は、徹底的に陽児さんや関わる人達が動きやすくなることに集中して。これもやっぱり、目標を定めて道筋を引くんです。わかりやすく構造化したり、スケジュール化していくと、必ず目標が達成できるという自信はあるので。受験や、塾講師をしていた時の経験が不思議と生きてますよね(笑)。

ーー子守さんのロジカルな面が、最大に生かされてますね。これは関わる人達の安心感につながると思います。

僕はよく、外部から見ると何をしてる人かわからないと言われるんですよね。現場ではプロデューサーと間違われたり。でも、陽児さんの仕事以外は何でも、というのが僕の意識なんです。

ーー子守さんはこれまでアーティストとして生きていこうと思っていて、表現したいものを持っていらした。ある意味自我が強いからこそと思うんですが、誰かのサポートという役割に、すんなりと徹することができるのはなぜでしょう?

やっぱりね、後から考えたんですが、僕はこれまで「自分を癒すため」に映像を作ってきたんですよね。自分の中にある「わからない=気持ち悪い」という気持ちを乗り越えるため、セラピーのように作ってきたと考えるとスッキリするんです。映像は目的でなくて手段、ツールの一つだったんですね。

世の中の仕組みとか、社会に対して「これが普通だというけど本当にそう?」という違和感がいつもあるんです。これを伝えたいし、自分でも理解したくて物作りをしてきたわけですが、伝えるということで言えば、ツールには映像よりも会社を使った方が、ものすごい数の人に届くんですよ。しかも深く届く。こっちの方が面白いじゃないかと思えたんですよね。

ーーそれはクリエイティブの本質につながりますよね。子守さんは自由に活動した時期が長かったからこそ、その思考が育ったんだと思いますし、ツールへのこだわりを捨てることもできているんですね。

たまたま映像の道にわかりやすく進んだけれど、始まりは詩であり、そこから小説になり、映像となっていっただけで、同じことはやってきてないんですよね。
やはりSUGOIは少人数ユニットですし、ビジョンを心からとても大事にしている。だからこそ一人の意見で柔軟に変わることができるし、会社で働くということを自分の「表現」として取り組んでもいいなと、自然に思えたんですよね。

ーーそうか、SUGOIはそこで働いてる子守さんの自己表現でもあるのか…。なんだかすごいお話を伺いました。とりあえずどこでもいいから、と会社を探さなくて良かったですね(笑)。

本当に、周りにはやきもきさせたかもしれませんが、パッと決めないで良かったと思いますよ(笑)。

会社を通じて、自己表現をする。
こんな働き方をしている人が、一体今の世の中にどれくらいいるのだろうか。
積み上げてきたものを潔く捨てる勇気を支えたのは、おそらく彼の中に目に見えずとも熟してきた知性、そしてロマンティックな感性であろう。
自分史を話している内に色々つながってきた、と仰った子守さんの表情は、とても満足そうだった。


ライター:s.e.i.k.oさん

みんなにも読んでほしいですか?

オススメした記事はフォロワーのタイムラインに表示されます!
オススメありがとうございます!

このnoteを書いたSUGOIって、どんな会社?

スキ嬉しいです!!コメントももらえると嬉しいです!
株式会社SUGOI  愛とアイデアのある会社
「つくりもの」をつくらない、つくる会社 | メンバー全員がクリエイター | 企画立案から実制作まで、「愛とアイデア」をもって行います | 映像、グラフィック、ウェブ、ブランド、プロジェクションマッピング、ホログラム、etc | note毎日更新しています、フォローお願いします!